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白昼夢、或いは全部勘違い

コンテンツの消費

「感情のステージ」で殴り合いたい相手は結局自分以外にいなかった

大森さんのLINEブログに懐かしい写真があがっていた。
ので、これにまつわる懐かしい文章を。

大森靖子 - u823.net

具体的な日付は覚えていないが、メジャーデビュー後に今のサイトに変わった。
twitterで検索した限りでは、2014年6月27日にこの改変について言及されているのが1番古いものだった。

いろんな時期のいろんな写真と言葉がコラージュされたサイトトップ、前の写真は随分ノスタルジックだったから、なんか変わったなあ、と思った。
写真も言葉も、ただ歌詞やアー写を集めてきたものではなかったので、「avexってちゃんと大森さんのこと見てくれてる…」と嬉しくなったのを覚えている。
「その写真古すぎない?」って思うのもあったけれど。

(ほぼ)歌詞からのものと、それ以外はブログに書かれている言葉だ。
1番古いもので2012年、そこから2014年5月までの言葉のなかで、最近1番目にするのは「感情のステージにあがってこい」だろう。

(私が観たわけではないので本当かはわからないが)MCで「感情のステージにあがってきてください」と言っていた(らしい)のが2013年2月。
ブログに類似の言葉が登場するのか2013年3月、「魔法が使えないなら死にたい」が発売した前後だ。
今もウェブにあがっているインタビューで述べているのが2014年5月公開のもの。
音楽サイトの「洗脳」のレビューで「一時期『感情のステージにあがってこい」と、よく話していた』と書かれているのが2014年12月。

感情のステージにあがる」とはどういうことだろうが。
「ドグマ・マグマ」の象徴的な歌詞、

考えろ、感じろ
TOUCH MY YES

と合わせて考えてみる。
感じるのではない、考える。

先のインタビューやブログでは、「論理的であること」と「感情のステージにあがってくること」の対比が述べられている。
それを踏まえ、「感情のステージ」への工程を、ステージらしく段階を踏まえて考える。
「ステージ」は「舞台」であり「段階」だ。まずは段階の話をする。

1段階目[感じろ]
「感情」「感じる」こととは、論理でなくそう思ったことそのままだとして。
好きなものを好きでいることは存外難しい。
私は思春期に「これ以上漫画ばっかり読んでたらまともな友達が一人もできないままイジメられるに違いない」と思って少年ジャンプを買うのを辞めた。私が一抜けする前に親交のあった同級生はあの後不登校になった。
大森さんが表紙になっていたファッション誌のコピー「私たちが大切にしてきたもの それは好きなものを好きっていう勇気」、私が子どもの頃にも誰かこれを教えてくれたらよかったのに。
「感じる」ことは簡単で、それを保ち続けることは困難だ。

思い出すのは「音楽を捨てよ、そして音楽へ」。

面白いこと 本当のこと 愛してる人 普通のこと
なかったことにされちゃうよ

そしてそれが「それ以外はなかったことに」されることの主体である、「なかったことにする人」とは論理的な立場にいる人ではなかろうか。


2段階目[考えろ]

いつもいつも ことあるごと それ以外はなかったことにされました

「感じた」ことが「なかったことにされる」のが論理のステージ、と仮定する。
論理のステージは、感情のステージに対する一方的な害悪ではないと私は思う。というより、思わざるをえない。
なぜか、それは私が日々、論理のステージに生きているからだ。
本当は職場で作っているプレゼン資料なんか全部ピンク色にしてやりたいし、大好きなフリーフォント「Oradano明朝体」で報告書だって作りたい。やらない。コーポレートカラーの散りばめられた社内規定のテンプレートを使っている。
パンチの効いたいらすと屋さんのカットを忍ばせることが私にできるささやかな自己主張だ。
これが論理かといえば、少なくとも私にとって最も身近な論理はここにある。

そして、論理なるものがただひたすらに冷たく嫌悪すべきものだとは思っていない。
冒頭に話を戻して、大森さんの昔のサイト。

青字のところはすべてリンクだ。
全ライブの告知ごとに、各会場のサイト、e+の販売ページ、公演のサイトに飛ぶよう日々更新されていた。
「ライブを一つ一つ大切に」という気持ち(イコール感情)かもしれない。
が、私が大森さんを好きになったころ、「知らない会場だ」から「ググるか」まで心が高まっていなくても、ポチッと押せばリンクが飛ぶので「この辺なら行こうかな」となることもあった。
これが論理的な、緻密な計算の積み重ねでなければなんなのか。
大森さんが私の知っている短い間に右肩上がりに動員を増やしたのは、「音楽がいいのは当たり前」で「それ以外になにをするか」を一つ一つ重ねたからだと、私は思ってならない。
そしてそれは、よく考えられた論理に基づくものだと思う。

3段階目[感情のステージ]
「なかったことにされちゃう」ものを「なかったことにしない」。
なかったことにしたほうが話が早いことはいくらでもある。仕事中にOradano明朝体のことは考えない。たまに考えるけど。
それでも、譲れない時に、なかったことにされそうなもの・されてしまったものを、ちゃんと見せ合うこと、ぶつけ合うこと、この段階を[感情のステージ]とする。
「このままだとなかったことにされるかもしれない大切なものを抱えた人」や「日頃どっぷり浸かっている論理の糠のなかからきゅうりよろしく隠していた気持ちを引っ張り出した人」のぶつかり合いだ。しんどい。
「わからない」と言われると悲しいが、「わかる」と言われるのはそれよりずっとずっと嫌いだ。全方位に「お前になにがわかる」といつも思っている。
「お前の中では筋違いかも知れないけど、こっちはお前の論理で生きてねーから!」といつかの映画で言っていた覚えがあるが、感じたことから目をそらさないこと、自分の気持ちもそうだし相手の気持ちも尊重した結果だと私は思った。

そしてステージは舞台でもある。イメージは暗黒武術会のリングだ。
ここでドンパチやれるのが、そしてその結果認めるなり拒絶するなりなんなりすればいいんだろうなと思う。
しかし「感情のステージ」は、しんどい。

4段階目[考えろ、感じろ]
「なかったことにされ」そうになった感情を闇雲に振りかざしたところで事態は好転するだろうか。
エモーショナルな押しの一手!が強靭な人もいるだろう。私には、まあ、無理だ。エモーションが足りない。
しんどいのだ。気力体力時の運が足りない。
運をどうやって高めるか、それは「審判さんへの態度」だと大谷選手が言っていた。私は感動した。いやマジで。
詳しくは「大谷選手 マンダラチャート」で検索してほしい。これはこのブログ唯一の有益な情報だ。

せっかく「感情のステージ」にあがる気になったというのにこのままでは負け戦だ。負け戦なんか私はやらない。泥試合もやらない。
ではどこで勝負するのか、それが「考えろ、感じろ」だ。
元ネタと言っていいのか、あまりに有名な「考えるな、感じろ」に続くのは禅問答だというが映画は観ていないのでよく知らない。
「感じる」ことができたら、それを「感情のステージ」でなかったことにしないための戦いが待ち受けているかもしれない。そこで必要なのは「考える」ことだ。

話は飛ぶが私の性別は社会的にも生物的にも心情的にも女だ。
「女の子がそんなに勉強してどうするの?」の呪いは大学に行こうが働こうがなかなか解けない。なかなかの年齢のなかなかの立場の取引先の男性は平気で私に補佐の人?と聞く。ちげーよ御社を長いことご担当させていただいておりますよ。
だからこそ「考えろ、感じろ」と鼓舞されることが、私には結構な救いになるのだ。
私は無駄だと言われようが考えるぞ、それは武器だ。

以上の4段階、上下や優劣はない。
それぞれ「今ここ!この段階だ!」というタイミングがある。
それらを経ることで、考えて、感じて、到達するのは「私の『イエス』」だ。
「イエス」、「はい」、肯定だ。
名詞としての「yes」の例文は「say yes」、私が随分昔に引いた大森さんのチェキくじには「SAY YES」と書かれていた。ちょうどあの頃だ。

歌詞カードでは「YES」だが、音だけをMVのイメージのままに聴くと「イエス」、キリスト教の神様なのか神の子なのかナザレの方なのか私はその辺に疎いのでなんと呼ぶべきなのかわからないが、「Jesus 」と掛けてあるのかな、と思う。ジーザス!ジーザス!
(冗談で一度だけぎゅっと抱き締めてキスをくれるような男はボッコボコにしろよ!)
なので、「MY YES」は、「私の賛成すること、肯定すること」、解釈を広げると「私の意志」であり、なおかつ「私の神様」だ。

大森さんは「kitixxxgaia」に関するノーツやインタビューで、最近のごく簡単に遣われる「神」という言葉に言及している。
先日行われた「大森靖子ゲリラカラオケ大会」に私は運良く足を運んだ。
支払の列に並んでいた時、後ろにいた男の子(大学生くらいだろうか?)が、「これマジ神イベだったな!」と言っていたのが聞こえた。純粋に「楽しかったね!」というニュアンスで遣われる「神」に、初めて生で聞いた!と思ったのをよく覚えている。
私は何か好きなものを評するときに「神」という言葉は遣わない。単に馴染みが無いからだ。
そういう意味で遣われる「神」という言葉を初めて目にしたのはおそらくAKBの人気上位のメンバーを指した「神7」だったと思う。
「え?神?神なの?」と思った。
信心深いわけでもなんでも無い私が神様の話をするのは「沈黙」や「深い河」を読んだ時くらいだ。
なので、あまりに軽く遣われる「神」という言葉に驚いた。
今では当たり前のように遣われている。あの推定男子大学生は私より10歳近く年下だろう。
意味がわからない、とは言わない。私が高校生の頃連呼していた「ヤバい」や「超」だって、「わけのわからない若者言葉」と言われていたものだし、自分の手に馴染まないというだけで否定するのは格好が悪い。
「『超かわいい』って言うけどな、お前ら、かわいいを超えてどこに行くつもりだ」と、高校でいっとう好きだった国語の先生に言われたことがある。当時は「成る程〜」としか思わなかったが今なら返事ができる。「かわいいを超えてもたどり着くのは『かわいい』です」と。

しかしながら最初は「それいくらなんでも大袈裟では、あなたの神は学業に専念するなどの理由でいなくなるふわっとした存在でいいのか」とは思った。
それからそれなりの年月を経て、確かにふわっとしてはいるが、数が多いのだということに気づいた。
「神イベ」は年に何回開催されているだろうか。試しにtwitterで検索をかけたら、今日は3500人収容の会場に100人しかお客さんがいないイベントと、ソーシャルゲームの期間限定ガチャが神イベらしい。

私に新しい神様買ってよ 君の神様も見せてよ

映画もいいよね 漫画もいいよね

であり、

海もいいよね 山もいいよね

なのだ。
海の神様に山の神様、ジャパニーズ八百万だ。
神映画神監督神脚本神俳優、神展開神絵師。
新しい神様は買えるのだ、多分Amazonとかで。「愛はコンビニでも買える」以上の衝撃である。

CDや映画や漫画を貸しあって 同じ魂を探してる

同じものを好む人に同じ魂を求めること、それが「君の神様も見せてよ」なのかなと思う。
(けれどその目論見はおそらく果たされなかったのだろう、なぜならここはJI・MO・TOだから!)

繰り返すが、好きなものを好きということは骨の折れることだ。
「私の意志」だって、同じく持ち続けることが難しいことくらい、私でもよく知っている。
そのためのステップが、「感情のステージ」あがることで、「考えろ、感じろ」なのかと思う。

ところで「MY YES」のMYは誰だろうか。
「私の意志」、今まで私、つまりこれを書いている私のことを想定していたが、歌っている大森さんであるとも言える。
「相手の意志に触れるためには、感情のステージにあがって、ちゃんと考えて感じろよ」ということだろうか。
大森さんのライブを何度も何度も見ている私は、ちゃんと大森さんのYESに触れることができているんだろうか。わからない。

愛する気持ちだけでも 折れずに生きてりゃ充分さ

を実現するために、
感じて、考えて、感情のステージにあがって、考えて感じて、そうやって生きていけたらよいなと、そう思いました。

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