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白昼夢、或いは全部勘違い

コンテンツの消費

17/01/29 「沈黙-silence-」を観て

長い間公開を心待ちにしていた映画「沈黙」をようやく観てきた。 あらすじにも結末にも言及する。 刊行50年も経つ原作ありきの映画なのでご勘弁。

2時間40分に渡る長編の中、息つく暇もないというか、息ができなくなるような作品だった。 エンドロールが終わって席を立ってからも、観客の間には重たい空気が流れていて、なんだか急なお葬式のあとみたいだな、と思った。
迫害される人々を見て、「なんでこの人たちがこんな目に遭うのかな」「死んでしまった人達はどうなるのかな」と何度も思った。 「神父さまが来なければこんなことにはならなかった」と村人が声を荒げたとき、私も同じ気持ちになってしまった。 けれど、ロドリゴ神父と一緒に捕縛された生月の女性は、「パライソって素晴らしいところなんでしょう?」とロドリゴ神父に問うていた。 転んだら、踏み絵を踏んだら、天国に行けないとして、貧農で辛い思いをして、いつかパライソに行くことを願う人たちにしてみれば、切支丹として殉教して、そしてパライソに行くこと以外に希望はなかったのかな、だから踏み絵を踏むことができなかったのかな、と考えた。 けど、それでも、今、生きていて、そんなに辛い思いをしなければいけない程のことって一体なんだろう、私にはわからなかった。

トモギ村のモデルになった外海の景色が私は大好きだ。あんなに綺麗なところで、ぞっとするような迫害が起こっていたこと、史実としては知っていた。 雲仙に行ったときだって、至る所に「ここで隠れ切支丹が熱湯をかけられたのです」と立て看板がしてあった。 いくら知識として知ってはいても、それを映像で観るのは段違いで、ああ、これが私の好きな外海で起きたことなのかと、涙が出た。
舞台となっていたのは、地獄の雲仙、トモギ村のある外海(そとめ)、キチジローの地元は五島、加瀬亮扮する青年の出身は生月(いきつき)、ガルペ神父が潜伏していたのは平戸(ひらど)、最後は長崎、とても綺麗な町と海ばかりだ。

キチジローは転んだ。何度も転んだ。
例えばモキチのような「強い信仰心のあるもの」として生きられない、弱い者として位置付けられる。 けれど、それが弱さだとして、転び、それでも生き続けて、また告解し、また転び、裏切り、それでも許しを請うことが、私には出来るだろうか、と思った。 許しを請うことがもし甘えだとしたら、甘えは信頼に近く、「こんな俺でも神さまは許してくれますか」という言葉から、かえって強い信頼が、私には感じられた。

原作、遠藤周作の「沈黙」を初めて読んだのは、中学生の頃だったと思う。 「新潮文庫の100冊」という、確か夏休みの学生向けに配られる無料冊子で、「神さまって、いないんじゃない?という疑問を、ここまで考え抜いた人達がいる。」というコピーとともに紹介されていた。
私の育ちは長崎県の北部なので、近所に教会がいくつもあったし友達にカトリックも多く、私の身近にあったのに私には親しみのなかった「信仰」ってなんだろう、と思い「沈黙」を読んだ。
あと、「信仰ってなに?」という疑問が生じたのは、私の宗教に関する最初の記憶が「新興宗教の勧誘に関するご近所トラブル」だったのも大きい。あれは世界三大宗教を知るより前のことだった。「神様を信じること」は、「なんか怖いし、誰も幸せにならない」と思ったのは、3歳か4歳くらいのころの話だ。 そういう動機で読んでみたが、なんなのか前よりも一層わからなくなった。 「キリスト教を日本にもたらした人は、これを読んでどう思うのだろう?」と思った。 監督がどう思っているのかは、私にはわからなかった。

軽めの感想として。 私はあんまり映画を見ないけど、巨匠ってすごいんだなあっていう普通の感想を持った。 キチジローを演じる窪塚洋介がとんでもなかった。とんでもなかった。 窪塚洋介を映画館で見たのは「ピンポン」以来だったが、窪塚洋介の、眼が!眼が! 薄暗い画面の中、ロドリゴ神父を見つめる眼が!眼が! 加瀬亮加瀬亮なのに出番は殆どないのだけれど、それでもとにかく印象的な役どころで、あと、べらぼうに方言が上手だった。 演じる役は生月出身だった。生月は食べ物がとんと美味しくて綺麗で穏やかな島だ。 そういえば生月出身の同級生は今も隠れキリシタンのお家の子だったのを思い出した。元気だろうか。
 
(後日追記)
「ロザリオや絵画を欲しがる教徒を不安に思ったこと」について。
ロドリゴが、五島で教徒に請われるままロザリオを解体して配るシーンがある。
気の進まなそうなロドリゴのこと、その時は特に何も思わなかったが、後日何かで「ロザリオは、ミサで祈りの回数を数える道具」ということを知った。ロザリオがパードレにとってどのような位置付けなのか私には正しく理解できないが、その道具を解体させること、本来の目的?であるミサをあげる(で、あっているのか?)ことなどをわかっていない、という嘆きだったのかな、と思った。
なので、もし私にその知識が事前にあればあの時のロドリゴのやるせなさをもう少し汲み取ることができたのかな、と思うと同時に、でもそんなのずっと潜伏してた人に求めるのも酷な話だよな、とも思った。

ロザリオといえば「長崎の鐘」の2番。

藤山一郎/長崎の鐘 - YouTube

中体連や高総体でお馴染み「長崎県スポーツ行進曲」のメインメロディは「長崎の鐘」で出来ているのは豆知識。

長崎県スポーツ行進曲 - YouTube
 
(後日追記2) 
この映画についてお話していただいた方に、「一番のシーンはどこ?」と聞かれた。
あまり考えたことがなかったが、とっさに口から出てきたのはモキチの水磔のシーンだった。
強い信仰心を持って、取り乱さず、殉教する様を、私は「格好いい」と思ってしまった。口から零れるオラショが彼の心を支えている様にも、惹かれるものがあった。
映像も、画面いっぱいに映し出される顔は、本当に1人のキリシタンのドキュメンタリーを観ているようだった。
ただ、もし私の大切な人が同じ目にあっていてらそれを回避する方法があるのだとしたら、私は生きながらえることを願ってしまうと思う。信仰や名誉なんていいから、生きていてほしい。それは彼らと生きる世界が違う私の願いなので、そういう問題ではないのだろうというのはわかっているが、強い意志を持った立派な人が亡くなったのは悲しい。けれど彼を彼たらしめていたのは信仰なのかと思うと、もう私の理解を超えて「なんでこんなことが起きたのか」と余計に悲しい。
蛇足だが、「信仰心によって取り乱さずに死ぬ」(ざっくり言うと)で思い出されるのはコルベ神父だ。余り詳しくない私が述べることはないが、あの人も長崎に縁が深い。
 オラショといえばぐるりよざ。
吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」3.祭り - YouTube

(後日追記3)

原作を読み返してから映画を観るか、映画を観てから読み返すか迷ったが、読まずに観たので読み返している。進捗は2/3くらい。
ロドリゴが日本のキリシタンをやや見下しているように見えて、正直に言うといい気はしない。けどよく考えると彼が日本に来た動機は「日本に信仰を広めたい」ではなくて「師の消息を確かめる」だものな、とふと思った。
キチジローの「わしは強か者にはなりきりまっせん」という台詞、「なりきることができない」(振りをすることができない)ではなくて「なることができない」(「〜きる」は出来る、完遂するってニュアンス)だろう。
私はわかるけれど、大多数の人には伝わらないのでは、でもそれが不幸なことなのではなくて、私もお国言葉以外のニュアンスは今までも掴みきれてないんだろな、という気づきを得てた。これは一体どのように翻訳されたのだろう?字幕でも方言は考慮されるのだろうか。気になる。
あとは県南の言葉だからたまに馴染みのないものが出てくる。どこまでも忠実だ。
一先ず早く読み終わりたいけれどなかなかどうして噛み砕けないのでちまちま言葉をここに吐き出しながら読んでいるところ。

 

最後に、お勧めスポットリンク集
遠藤周作文学館
とにかくロケーションがよき。

遠藤周作文学館 | 長崎県長崎市東出津町

「沈黙」の企画展行きたいんだけど遠い。


島の館
隠れキリシタンの膨大な資料、もっと保護されてほしい。

平戸市生月町博物館 島の館公式サイト

 

千々石展望台

こんなに綺麗な景色、私は他に見たことがないと言いたいところだが、サイトはファンシー。

施設案内 | 長崎の地元銘菓を中心としたお土産物販売 千々石観光センター

 

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