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白昼夢、或いは全部勘違い

コンテンツの消費

お金も出さずに感想だけをこねくり回すなんていいご身分だな

おやすみプンプン」を久し振りに読んだ。
最初の頃は単行本を買っていたが、段々と買うペースが鈍ってきた頃、最終巻はエグい、読まなければよかった、などという評判を聞き、ずっと避けていたので、数年越しに最後まで読んだ。
ぐっちゃぐちゃのドロドロになって、誰も救われず後味の悪さだけが残るようなものを想像していた。

率直には「そんなにエグいか?」と思った。エグいものに耐性のある私、エグい!などでなく(だって無いし)、「エグい」よりもただ悲しさが先に立った。
物理的、肉体的にグロテスクかと言われると、私の平穏な日常からすればモチのロンなんだけれど、フィクションとしてはそんなに、で、直接の破損ではなく気持ちの面でいうと、それもそんなに。
多くの人が感じているものがわからないくらい私の感性が未熟か、死んでいるのか、どっちだ。
「エグい」と思わなかっただけで、つまらなかったわけではない。
ここでいう私の想定していた「エグい」は「自分の想像も及ばないような不条理が猛威を奮い、その後1ヶ月気持ちが沈む」ようなものだ。
作品の中で起きたことは、私の身近では幸いにして殆ど起きていないけれど、ルポタージュで見かけたような場面だとは思った。つまり、起きてもおかしくないことだ、と思った。なので、「エグい」より「悲しい」「怖い」と思った。
全部読んだ上で、「愛子ちゃんのTシャツをお揃いで着て夏フェスに行こう!」という発想に至るのはエグいな、とは思った。

愛子ちゃんが、社会的に、ただただ可哀想だと思った。
でもそれは私の考える「幸せ」や「安全」や「健康で文化的な最低限度の生活」から逸脱しているから「可哀想」と思うのだろう。本当に可哀想かどうかは愛子ちゃんにしかわからないし、愛子ちゃんにもわからないのかもしれない。
フィクションを消費してカタルシスを得る気楽な立場から言えば、「好きな人に殺される」(「好きな人」や「殺される」はこの場合適当かどうか怪しいけど)という終わり方には心惹かれるものが多い。我が身には真っ平御免だ。
普通に生きていたらいつか私のことを忘れてしまうかも知れないけど、殺してしまうくらい好きならきっと忘れないでいてくれるよね、という発想、あなたのためなら死ねると言うのでじゃあ死ねと言ったら死んだ人が忘れられない、なんてあらすじ、ヤンデレとでもメンヘラとでもラベリングすればいいが、私の馴染んできたフィクションでは然程突飛ではないものだ。
実際の私は死なないし毎日夫の帰りをご飯を作って心待ちにしている。ハッピーラッキーエブリディだ。

カルト的な人気でもサブカル的な雰囲気漫画でもなんでもなく、ただリアルだと私は思ったので、ネットの評判を気にしてから何かを消費するのは、私には向いてないなという思いを新たにした。

後は関くんが好きなので元気に暮らして欲しい。

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