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白昼夢、或いは全部勘違い

コンテンツの消費

「不幸と孤独が表現として尊くて幸せは感受性を鈍らせる」VS私

何が言いたいかというと、
「結婚はしてもしなくてもなんでもいいし、結婚したからって必ず幸せになったり不幸になったりするわけではないのにお前の不幸を十把一からげに結婚のせいにするなよ」
「不幸と孤独が表現として尊くて幸せは感受性を鈍らせる、という価値観から自由になりたい」
という話その1。

大森靖子ちゃんにリプライを送ったら

 

というお返事がきて、

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というブログが更新されたので、その話をする。

「私信私信!イェーイ!」ではなく、「私が中途半端にわかりにくいことを言ったもんだから、大森さんがちょーわかりやすく長く文章を書いてくれたのかもしれない…私がもっと140文字で誰にも誤解されない完璧なものを書けていたら…」と思ったが私の書いたものはそんなに人目に触れないので考えすぎである。
しかしなぜ「140文字以上かけて、私の思うところを書こうと思ったのか」というと、ツイッターをねちねち検索していたら出てきた、おそらく私の発言に対する「結婚してからのほうが私は自由だ」や、大森さんの発言に対する「結婚は幸せだって証明してほしい」に、「そういう話じゃなくてね!」と思ったからだ。
この流れには悪意はどこにもない。私は怒りを持ってはいない。
しかし、悲しくはあった。自分の発言が何も知らない人に正しく伝わるはずもないし、正しく伝わっているかどうか知る手段だってどこにもない、とわかっているし、しかも作品でも何でもなくたかだかツイートだったにもかかわらず、真意にそぐわない反応があったのは悲しかった。
ものを作って世に出している人はすごい。日々こんな誤解を積み重ねているのだろうか。それが音楽だとしたら、「これは悲しい曲じゃなくて楽しい曲でーす」などと言葉で添えるのは野暮でしかないからなす術がないのだろうか。それとも世の中に放った瞬間から全ての解釈は受け手に委ねられるのだろうか。

本題に入ろう。
私が言いたかったことは、大森さんがいう、2と3だ。

まず先に、3の話をする。

「幸せになったら曲がかけない、おもんなくなるみたいな、クっっっソくだらん、なんもわかってない人がつくる風潮」の受け手側のものである「『不幸と孤独が表現として尊くて幸せは感受性を鈍らせる』みたいなの押し付けられてる感じ」は、私の被害妄想か、それとも実在するのか、私が感じたのだから私の中には実在する。
中学生の頃は「低俗なクラスメイトに林檎姫様の詩歌が理解できるものか」と思っていたし、大学生の頃は「男女連れ立って夏フェスに行くような奴らは細美さんのことなんて何にも知らねーだろ」と思っていた、が、そういう話ではない。
(今なら、誰しもそれぞれ色々あるのだろうと想像できるが、それは一旦置いておこう。)

スタートラインが「男女連れ立って夏フェスに行くような奴ら」ではなく、通学バスでMDを聞きながら寝たふりをしていたはずの私が、結婚した(あるいはその手前、友達ができた、彼氏ができた)からといって、幸せになったからといって、感受性が鈍るのか、という話をしよう。
(結婚イコール幸せの等式については後述する)

感受性が何なのかは曖昧だし正直言って胡散臭い。前から苦手だった人が「私は感受性が豊かだから〜」と言っていた所為だ。なんだそれ、自称するものなのか。
辞書を引くと、「感受性」とは外界の刺激・印象を受けいれる能力、物を感じとる能力、とある。
インプットに対する内部反応であり、それはアウトプットには比例しないのだろう。つまり、そもそもの大前提として、それは他人に推し量れるものではない。けれど、ここまで書き連ねた上で「お前には関係ないだろ!」と捨て台詞で終わらせるのは格好がつかない、ので、引き続きこれを読んでもいないであろう仮想敵と戦う。
私の動力源はいつも仮想敵への負の感情だ。情けない。

「ネガティヴコンテンツ」と言い表した人がいたが、インプットから負の要素を汲み取って、自分の中にもともとある負の感情を使って消費することは、持っていない人より簡単だろう。
私が大森さんの中でいっとう好きな歌詞、「お気に入り 使い古した絶望」を聴くとき、私の中によぎるのは実際に抱えた記憶だ。
自分が捨てきれない記憶を「お気に入り 使い古した絶望」と名前をつけてもらった気になったし、あの歌を聴くたびに、少しずつ浄化される思いがする。
しかし、それがコンテンツを消費する際の最適な方法だとは、私には思えない。
不幸や孤独は私の持ち物だ。誰かのアウトプットに照らし合わせて自分の持ち物を省みることはできるかもしれない。けれどそれでは、誰かの作ったものがわざわざ提示してくれている私の中にないものを汲み取ることはできないだろう。
あとは、限界を感じる。内包していないものとの溝を埋めることができなくなり、多様なコンテンツを享受できなくなるからだ。
「結婚するわけじゃないけどペットボトルでキスとかするかも」なんて思ったことがない、と嘆いたり、「恋や友情といった然程得難くないものを努力不足で得られなかった自分への苦悩」から「勹″ッと<るSUMMER」のMVを直視できなかったりしている。勿体無い。
(「勹″ッと<るSUMMER」のMVを克服することは今年の夏の課題だ)
このままではつまらないからそういう消費の仕方を私はやめたいな、という思いを含んでいるが、不幸や孤独といった負の感情を利用してコンテンツを消費することが、対象を最も深く理解できる最適な方法だとは私は思わない。
インプットしたものを内包する記憶とこねくり回してまた負の感情を再生産するだけならなにもインプットせずにずっとブログでも書いていればいい。
なので、不幸と孤独が表現として尊くて幸せは感受性を鈍らせる、という理論の裏付けが、「『捨てるか迷って取っておいた絶望』によって大森さんをより深く理解していたが、幸せになったことで内包した負の感情がなくなり、結果として感受性が鈍った」だと推測しているが、私はそれを否定する。
「押し付けられているような気がするもの」の裏付けを推測し、それを否定することはただの一人遊びだ。とても時間のある反論したい人はなにがしかの手段で連絡をくれればと思うがブログはコメント欄を設けていないしTwitterはフォロー外からの通知を無効にしているので手段はない。

そもそも、結婚して幸せになったからといって私の不幸や孤独が帳消しになるわけがない。
私は幸せを土台にして、やっと自分の不幸や孤独と向き合うステージに立つことが出来た。
今はそれと折り合いをつける作業をしているが、幸せを土台にしなければそれに着手もできなかっただろう。
結婚した頃、ありとあらゆる悩みや苦悩を「でも、今結婚して幸せなんでしょう?ならいいじゃない」と言われたが、私の不幸を勝手に帳消しにするなよ。

 

私はこの通り、幸せになると感受性が鈍るとはちっとも思っていないが、その風潮に対してうんざりしたり悲しくなったりすることがある。

押し付けられるのでもなく(この文章のようにエネルギーを使って)反発するのでもなく、「いや、別に、私そんなことないし」と軽く思えることが、「自由になること」だ。もっと自由になりたい。

だから大森さんが「幸せ」と「もっといい曲をかく」を両立してくれることで、勝手に励まされているのだ。

 

長くなってきたので、、
「結婚はしてもしなくてもなんでもいいし、結婚したからって必ず幸せになったり不幸になったりするわけではないのにお前の不幸を十把一からげに結婚のせいにするなよ」という話は後日にする。

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