読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

白昼夢、或いは全部勘違い

コンテンツの消費

16/02/28 「愛してるよ!会」に参加して


大森さんとの思い出、及び大森さんの愛について、あるいはリリイベの記録。

「ちゃんと愛してるって言ってました?」
「ベッドの中ではね。」
「違う。」
「なにが。」
「会いたくて、会いたくて、仕方がないってのが愛してるってことですよ。」
「子供だな。」
(2006年のオモコロ特集って誰が読むんだよ。私は思い出した頃に検索して読むよ。もう既にインターネットの藻屑だけどなくならないでほしい。)

(以下、端的に言うと、「ライブは楽しかったし、その上『愛してるよ❤︎』って言い合えて身に余る幸せだった」、それだけ。)

「愛してるよ」と言ったことはあるか。
「愛してるよ」と言われたことはあるか。

「愛してる.com」のMVに出演していた女の子がTwitterで、「『愛してる』って初めて言いました!」と言っていた。高校生くらいだろうか?
「月が綺麗ですね」や「死んでもいい」や「よく読んだら松山の悪口ばっかり書いてあるのにありがたがって坊ちゃん団子なんて作っちゃう松山の人は優しい」と言いがちな、私や、おそらくこんなものを読んでいるあなたは日常的に"Je t'aime."とも"Je ne peux pas vivre sans toi. "とも言うことはないだろう。
(「フランス語で「愛してる」の言い方まとめ厳選20フレーズ」より)
そういえば「死んでもいい」は「I love you.」でなく「Yours.」の訳だとネットで見たけれど(真偽は知らないけども面白い記事なので各自検索してほしい)、「I love you.」の一環としての「Yours.」はありえると思うので、「死んでもいい」はここに含む。

「愛してるよ!会」とはなにか。
大森さんのアルバム「TOKYO BLACK HOLE 」(2016.3.23 on sale!!!!)の発売記念イベントとして行われた特典会だ。リリースイベント、リリイベ、予約会ってやつだ。

【特典会:愛してるよ!会について】
「イベント参加券」をお持ちのお客様から順番に整列して頂き、大森靖子に「愛してるよ!」と愛のメッセージを伝えて頂きます。※時間内であれば、握手やトークも可能です。

私は大阪のイベントに参加した。
それより少し前に行われた東京のイベントでは、「接触(握手、お喋りできる時間)の時に話すことがない人は『愛してるよ』って言ってください」と大森さんが言っていた、とどこかで見かけた気がしたのだが大森さんのTwitterを検索しても出てこなかった。

イベントの開催が発表されたのが2/24(大森さんかカラオケしまくるニコ生にて)、特典会が「愛してるよ会」であることが発表されたのが2/25(多分)、そしてイベントが2/28だった。

私は、「愛してるよ!」と言うことができるだろうか?
不安で不安で仕方がなかった。
会社からの帰り道、小さな声でブツブツと「愛してるよ…愛してるよ…愛してるよ…愛してるよ…」と練習してしながら帰った。すれ違った人にすれば、あの時の私は新手のサイコパスかもしれない。

そうこうしている間に当日はあっさりやってきた。
梅田のタワーレコードにたどり着いたときには既に多くの人が予約列に並んでいた。
こんなにたくさんの人が、「愛してるよ!」と言うために並んでいるのだ、と思うと、すごい光景だ。

ライブの感想は書けないので書かないが、あの日大森さんは「大森靖子」ではなくて「大森さん」だった、と思う。

かくして、「愛してるよ!会」の順番が私に巡ってきた。
私は、大森さんの柔らかで暖かな手を握り、大森さんの目を見て、「愛してるよ」と、すんなり、と言うよりはぽろっと、言うことができた。
大森さんはふんわりと笑って、「愛してるよ」と言ってくれた。
私は少し笑ってまた「愛してるよ」と言った。
大森さんは先程より更に破顔して、「愛してるよ」とゆっくり丁寧に言ってくれた。
そして「ふふふ」と笑いあった。ここはお花畑なのか、いや梅田だ。梅の花はどこにも咲いていない。私の好きな花は昔から紫陽花とガーベラだ。

「愛してるよ」と言ったことはあるか?
各々、人生いろいろ、愛のさざなみ、私やあなたの経験はどうだっていいが、「愛してるよ」どころか「好き」だって、口にするのは大変に恐ろしい言葉だ。
好きな人に「好き」と伝えたところで、相手がそれを聞いてどう思うだろうか、伝えたらそれでお終いかも知れない、もう会えなくなるかも知れない。
そんな思いで「好き」と伝えることはままあるだろう。芋くさい私にだってそのくらいあるわ。
「好き」は捨て身でも遣える言葉だとして、「愛してるよ」ないしは「愛してる」は、恐らく、「この言葉によって、相手が自分を嫌うことはない」と、多少なりとも確信していないと遣わない言葉なのではと私は思う。
けれども私は大森さんに「愛してるよ」と言うことが出来た。
それはただ単に私が大森さん(あるいは大森さんの音楽、もしくはその両方、または大森さんを取り巻くなにがしか)を酷く大きく愛しているから、ということではなく、
大森さんに「愛してるよ」と伝えることに、少なくともあの時は、なんの恐怖もなかったからだ。
「愛してるよ!会」なのだから、「愛してるよ」と言うのは当たり前じゃないか、という大前提だけでなく、大森さんの顔を見た時、大森さんには「愛してるよ」と言ってもきっと大丈夫だろう、という心地がした。

そもそも私に、大森さんに「愛してるよ」と伝える権利はあるのか?そんな関係にあるのか?
大森さんを愛するのは私の勝手だ。勝手に好きになれば良いし、その気持ちを一人で膨らませるのだって私の中で完結する行為だ。
しかしそれを大森さんに伝えてもよいのか。
大森さんと私は、ファンとミュージシャンだ。
些か乱暴な議論になるが、「ファンとミュージシャン」を、「顧客とサラリーマン」に置き換える。音楽を書類なりサービスなりとしよう。なぜなら私は会社勤めだからだ。
「今日作ってくれた資料がわかりやすかった、問い合わせに丁寧に回答してくれた」→「いつも感謝している、また一緒に仕事がしたい、とても親切な人だ」という思考はなんら問題ないし、相手に伝えても構わない。
けれど「いつも感謝している」→「愛してる」になったらどうだろう、唐突に。めちゃくちゃ怖い。即、課長に相談だ。
つまり、友人知人ではない、なにがしかの提供を経由した限定的な関係性において、相手が提供しているくれるものの範囲を超えた好意を示すことは、相手を不快にさせるのではないか、と思うのだ。
私が愛を伝えてもよいのは、大森さんの音楽に関する範囲だけでないのか。けれど私は大森さんに「すき、だいすき、いつもありがとう」と伝えることをやめることができない。「愛してるなんてつまんないラブレター」を何度書いたことだろう。この長い文章だって、一言にすると「すき」、それだけだ。
しかし大森さんは、私に(あとあなたに)、「愛してるよ」と伝える機会を与えてくれた。

私の「愛してるよ」なんてつまんない、だって、私は大森さんのことをなんにも知らない。私の「愛してるよ」は虚構と妄想で増幅されたハリボテでしかない。
けれど大森さんは、その「愛してるよ」を受け取ってくれた。

「愛してるよ」と言う場を与えられたことは、愛を乞われているのではなく、愛を与えられたのだと私は思った。

「愛してるよ」と言われたことはあるか?
私はある。
広告を非表示にする