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白昼夢、或いは全部勘違い

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誰かにとっては一度しかない人生をかけたものであり、私にとっては何度目かわからない、世間様からしたら名前も知らないかもしれないバンドのおしまいのお話

うみのて、というバンドが完結するそうです。

2年くらい見てきたのでしょうか。
完結するとのことで、サイトに記録されているライブの履歴を眺めましたが、関西のライブは多分8割方見に行ったように思います。
でもそれは当たり前ですがただの記録にすぎなくて、思い出せることはたくさんありますが何の意味もありません。
何回見ただの全通しただのは、なんら創造的な努力のいらない自己顕示でしかなくて、馬鹿だなと思います。

うみのては、私にとっては(私の)自我や自己顕示がなく、不純物がないという意味でのただの音楽でした。
とても便利であり私の大嫌いな流行り言葉でいうと、「接触」や「私信」や「レス」や「推し」のない、「音楽が鳴って、それを聴いて、いいなぁって思う」、それだけでした。
誰が好きどころか、誰が弾いているのか、歌っているのか、それもあんまり関係がなくて、一人一人をじっと見て、全体を眺めて、聴いて、はっとしたらまたその音を聴いて、そっちを見て、いいなぁって思って、そんなことを繰り返しながら見ているそれはまるで、頭からとりどりの絵の具を被せられているような感覚でした。

学生時代に謳歌できなかった片思いの手酷いやり直しのような方法でしか、バンドを好きになれない人間なのだと自分のことを思っていました。
陰口を叩かれて然るべきやり方で好意を示すことしか出来ない私は音楽なんてちっとも好きではないと思っていたし、今でも私は音楽が好きなんだねと言われると肯定ができません。

でもうみのては、うみのての音が好きだと、思っています。
うみのてを見ている時は、私は音楽が好きなのだろうと思えました。
そう思うことはもうないのかも知れません。

どんなに解散や活動休止や完結を嘆いたとしても、じゃあその発表の直前でも必死になってひとつひとつを見に行っていたの?と言われると、私にうみのての完結を嘆くことは出来ないのでしょう。
うみのてより好きなものだって、あります。
それでも言ってもいいのでしょうか、好きだよと、また見たいよと、見に行ってもいいのでしょうか。
お金を払えば見れます。身を粉にして心を砕いて精神を切り売りしてお給料を貰っている甲斐があるというものです。
誰かにとっては一度しかない人生をかけたものであり、私にとっては何度目かわからない、世間様からしたらもしかして名前も知らないかもしれないバンドのおしまいのお話です。

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