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白昼夢、或いは全部勘違い

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「世界が消えてった夜も"世界が消えた"ということがあった」に関するそこそこ長いポエム

私の話 大森靖子ちゃん

世界が消えてった夜も"世界が消えた"ということがあった

大森靖子「ドグマ・マグマ」Music Video/YOUTUBE Ver. - YouTube

こんなに優しい歌詞があるのか、と思った。

「世界が消える」で思い出したのは、「ワンダフルワールドエンド」だ。

「ワンダフルワールド」のエンドなのか、
ワンダフルな「ワールドエンド」なのか、
私は初め、ワンダフルな「ワールドエンド」だと思った。
ロンドンにあるヴィヴィアン・ウエストウッドの本店であり、嶽本野ばらのデビュー作「世界の終わりという名の雑貨店」にも引用されている「World's End」という言葉が私の中に既にあったからだろう。
(世界の果て、ではなく)世界の終わりは素晴らしいもの、そうであればいいと思った。「世界の終わり」だなんて、なにも地球が爆発するという話ではない。好きな人の機嫌を損ねたり、体重が増えたり、ニキビができたりしたくらいで世界は簡単に終わる。

大森靖子&THEピンクトカレフが解散した話 - 白昼夢、或いは全部勘違い

「勉強してないからテストの結果が終わってる」
「明日デートなのにニキビできたから終わった」
私が思った世界が終わる、は割と簡単なことだ。

それに対して「世界が消える」とは。
「世界が消えてった夜」で想起するのは、大切なものが手から溢れたような日の夜のことだ。
いつも引用する一番好きな歌詞、「お気に入り 使い古した絶望」のことを思い出す。

いつもいつも、「忘れてなるものか」と思っていた。
「私が悲しかったことを、私が忘れてしまったら、あの時悲しかった私が可哀想」だからだ。いつまでも忘れられない記憶に名前をつけてもらえたような気になったのが「お気に入り 使い古した絶望」という歌詞だった。
夏を呪ったり夏を呪ったりしながら、「消してやるもんか」と思い続けていた。
消したら、忘れたら、許したら、私の負けだから。「可哀想な私」のことを私だけは認めてあげないといけないと思っていた。

「世界が消えてった」は、世界そのものが消えるというよりは、私が世界だと思っていたもの、あるいは私が全てだと思っていたものから私が消えることや、私が消えたと認めることで、「世界が消えてった夜」はそういう実感によって消えたくなるような気分や、消したくなるような気分に苛まれる夜のことだと思う。
そして、私は長いこと、それに抗うことだけが正解だと思っていた。
忘れることも許すことも怖かった。
私が悲しかったことまで、なかったことにされるのではないかと思っていた。

この曲のMVが公開された数日後、大森さんは「許す」と言っていた。

『許せないやつ全員許す!』の精神を身につけて先に進まなきゃならんです。今の私にも言えることですね。折角人間には『覚えていることを覚えているまま忘れる』機能が備わっているのだから。忘れましょう。

大森靖子 公式ブログ - ハイパーメンヘラモード対処法 - Powered by LINE

忘れていいの?許していいの?
「なかったことにされちゃうよ」じゃなかったの?と、「ドグマ・マグマ」を聴く前の私なら、思っていただろう。
(今も、ちょっと、そう思ってるけど)

世界が消えてった夜も"世界が消えた"ということがあった

忘れることや許すことがずっと怖かった。
けれど、もし、消えたとしても、「消えた」ということはなくならない。
だとしたら、それは私にとって大きな救いだな、と思った。

思い出したのは、これ。

大丈夫さ あの痛みは 忘れたって消えやしない

私が18歳の頃宗教にしていたバンドがつい最近歌っていた歌だ。

「そんなこともう忘れなよ」とみんな簡単に言うし、私だって言うこともある。
「反応しちゃだめだよ」と言われることもある、私だって言うかも知れない。

大森さんが「なかったことにされちゃうよ」で示してくれたのは、「悲しかったことや辛かったことを有耶無耶にしない」だと思っていた。

いつもいつもことあるごと それ以外はなかったことにされました

「なかったことにされちゃう」ことに目を向けること、なかったことにしないこと、それがとても嬉しかった。

「全感情のノーマライズ」について - 白昼夢、或いは全部勘違い
(これ相当前に書いたから今読むと「なんか違う」という気持ちになるけど、だから書き残す意味があるんだろうな、とか)

けれどまあ、ずっと抱えているのは、燃費が悪いことだ。
いい加減認める。まあしんどい。重いし。
「捨てるか迷ってとっておいた絶望」が役立つことはあんまりない。こういう文章を書き殴る時くらいだ。

世界が消えてった夜も"世界が消えた"ということがあった

消えても、「消えた」ということは確かにあったのだと。
忘れても、「忘れた」ということは確かにあったのだと。
許しても、許さなかったことだって、確かにあったと思ってもいいのかも知れない。
忘れても、悲しかったことはなかったことにされないのかも、知れない。

なんて優しい歌詞だろう、と思った。

(追記)

「なかったことにしない、でもひきずられない」

ひきずらない、じゃなくて、ひきずられない、なんだよなあ。

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アイコンが好きじゃないから興味ない

私の話

メアドが変だから好きじゃない

とても好きな歌詞。
ここでいう「メアド」は無論メールアドレスのことだが、ガラケーのメアド、なんならメモ帳に手書きして渡して入力していたガラケーのメアドのことを思い出す。

また、ここでいう「変」は、ただ「珍妙である」とか「他と違っている」とかではなく、「その集団の暗黙のルールに則っていないこと」だと感じる。
具体的にいうと田舎の狭いコミュニティの中の同級生の集団だ。都会のことはよく知らない。

seventeen」という雑誌がある。
女子中高生向けのファッション誌なのか情報誌なのか、買ったことがないのでわからない。
あの雑誌を躊躇いなく買えるか買えないかはリトマス紙のようなものだ。私が当時から自意識を拗らせていたのがよくわかる。
(なので、「逆上がりもできないまま大人になっちゃって」の私が「ファッション誌なんか読んじゃって」になるのは本当に「やられたって感じ」だ。)
中学生から高校生になる間の春休み、私は同じ高校に進学する元同級生の家で、「seventeen」の「可愛いメアド特集」を読みながら買ってもらう約束をしていた携帯電話のメールアドレスを考えていた。
自分の名前やあだ名、誕生日、好きなミュージシャン、好きなキャラクター、彼氏の名前や誕生日、顔文字(n_nとか、0w0とか)、一番ぶっ飛んでいるなぁと思ったのは「英語のスペルはわざと間違えるほうが可愛い!」というキャッチコピーに基づき提示された「rove」や「lave」だ。なにが可愛いのか私には今もよくわからないが、「seventeenが可愛いって言ってるんだからこれは可愛いのだ」と思う人もいるのだと、今なら想像できる。
既存の「可愛い」は作れるし、新規の「可愛いという概念」も作れるのだ。きれいはきたないしきたないはきれいで、いなたいはかわいい。
高校生になってメールアドレスを交換し出すと、命名規約がスクールカーストによって細分化されていることに気づく。
「派手なメアドにして調子に乗ってる」という悪口を聞いたことがあるだろうか。15歳の頃の私の周りではごくポピュラーなものであった。
この悪口を言われないように気を使ってメールアドレスを考えた私も、今では毎日職場から与えられたメールアドレスを使っている。安全安心だ。

「Over The Party」を初めて聞いたのはおそらく2013年の春から初夏、ガラケーを初めてiPhoneに機種変した前後のことだ。
それ以降メアドを交換する機会はめっきり減ってしまった。
取って代わってLINEのアイコン。
職場の人は大体、子どもの写真かペットの写真だ。人畜無害。「たぶんこの人は職場で急に暴力を振るってきたりお金を貸しても踏み倒したりしないんだろうなあ」という程度の社会的な安心を与えてくれる。世の中にどんな人がいても、ある程度の人格破綻なら私と私の周りに害がなければ基本的に知ったことではないが、仕事で関わる人の人格は破綻していない方がいい。

打って変わってSNSのアイコン、いろんな人がいる。
人間関係のキャパシティが既にいっぱいなので新規受付をほぼ停止して大体の人を無視している。ごく稀に口を開く。「縄張り意識が強くて、『ここまでです!』っていう線引きのある人」と言われたことがある。たまに、天気のいい日などは、「なんかごめん」という気持ちになる。

知らない人のことはアカウント名とアイコンで判断するしかない。décilitreってなんだよ、単位だよ。

当たり前にそうやって過ごしてきたが、ある日「私はたかだかアイコンで人を判断して、それ以上の関係を求めようとしないのか」ということに気づいた。あんな小さい画像で。
自分でもゾッとした。

誰かが私のことを「いい歳してファッション絶望ごっこの上にアイコンはぬいぐるみなのかよ、」とか思っているかもしれない。事実なので否定のしようがない。可愛いでしょ、シャルロッテちゃん。

何が言いたいかというと、
「みんな社交的ですごいなあ」と、
「アイコン一つで他人を判断するのは少し寂しいな」ということだ。

でも今日は曇りだから、あんまり人と話したくはない。

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踏み絵としての大森靖子とJI・MO・TOの顔かわいいトモダチ

大森さんの新譜のレビューとか感想とかではなくて私の話。

(ちゃんと先に言ったんだから私の話が読みたい人だけ読んでくれ)

大森靖子ちゃんのメジャー3rdアルバム「kitixxxgaia」より、「JI・MO・TOの顔かわいいトモダチ」。
私はこのアルバムを最初に1周した時に「これだ!!!!!!」と思った。
大森さんとは、世代が同じで、地元の地方都市具合も近く(松山の方が都会だけれど)、「この歌のことを私は知っている!!」と思った。

議論する前に言葉の意味を明確にすべきなので、「踏み絵」を辞書から抜粋する。

1 江戸時代、キリシタンでないことを証明するために、キリスト、マリアの絵像を踏むこと(絵踏み)に用いたもの
2 ある人の思想・主義などを強権的に調べること。また、その手段。

まずは語源のほうの「踏み絵」の話をする。
そのためには小説でも映画でもよいので「沈黙」を読むなり観るなりしてほしい。
「沈黙」には絵踏みが出来ない人がたくさん出てくる。踏まないと、筵に包まれて焼かれたり、こめかみに穴を開けられて逆さ吊りにされたり、手足を縛られて海に沈められたりするのに、だ。
子どもの頃は「なんで踏まないと死んじゃうのに踏まないんだろう」と疑問だった。けれどようやく最近「パライソだけが希望」の状況におかれた彼らと、布団の中でぬくぬくフリック入力をかましている私では物事の土台が違うのだと想像することが出来た。(教えてもらったんだけどさ。)
彼らの苦しみをぬくぬく生きる私が正しく理解することは当然無理な話だが、「踏んでしまうと希望がなくなる、心が死ぬ」「心が死ぬのは体が死ぬより辛い」ということだと思っている。
「沈黙」を観てからここ1ヶ月ほど毎日踏み絵ないしは棄教のことを考えているのでまた考えが変わるかもしれないが、今のところはそのように思っている。

さて、踏み絵としての大森靖子と「JI・MO・TOの顔かわいいトモダチ」のこと。

当然のことだが「踏み絵としての大森靖子」は「ある人の思想・主義などを強権的に調べる」のほうの「踏み絵」を指す。

東京で好きなカルチャーで踏み絵して
だいたい同じ青春の友達できて
世界変わった!って錯覚してさ
地元に帰ったら話通じない

この「東京で好きなカルチャーで踏み絵して だいたい同じ青春の友達できて」は、「地元には1人もいなかった、同じものを好きな人と知り合う」ことだとして。

一つ前のアルバム「TOKYO BLACK HOLE」の「少女漫画少年漫画」では「CDや映画や漫画を貸しあって」「ババ抜きみたいに下校する」、つまり同じものが好きな似たような人と連れ立って一抜けする様を歌っていた。
(あれは、学生時代特有の腹の探り合いだと思うので、本当に好きなものだったかは別の話。)

それに対して「踏み絵」は、「私はこれを信仰していませんよ」と示すことだ。

地元で踏んだ絵で思い出すのは浜崎あゆみ、あゆだ。
あゆのことはよく知らない。あゆはギャルの持ち物だったから、近づいてはいけないものだと思っていた。
「私なんぞがあなた様達の神様を信仰するなんて滅相もない」、
ギャルの領分を侵犯する意思はないことを示す非暴力・服従としての踏み絵、歪な地元社会で生きていく為だ。結構必死で生きていこうとしていたんだな。

もう一つの踏み絵は漫画だった。
今でこそ「この漫画が最の高だった」というブログを書きなぐったりしているが、それはここ4、5年くらいの話だ。
それまでの私は欲しいものを買わずに好きなものを好きだと言わずに細々と生きてきた。
なぜか、ごく簡単に言うと、「ヤンキーとオタクとそれ以外しかいなくて、オタクは全員ヤンキーにいじめられる」世界に属していたからだ。
いじめられることと好きなものを天秤にかけて、私は「漫画が好きな私」を対外的には手放すことにした。実際に踏めと言われたら踏んでいただろう。だってヤンキー怖いから。
踏んだことで私の心は死んだのだろうか。今は「『蟷螂の檻』が尊すぎて辛い」などとぼやいているのでそういう意味では比較的元気だ。本当に大人になって良かったと思う。
折角なので唐突に好きな漫画を貼る。

 

MO’SOME STING (ゼロコミックス)

MO’SOME STING (ゼロコミックス)

 


王文狐、好きな人(よその組のチンピラ)が自分のこと(上海マフィアかなんかのボスの息子)を好きになってくれないから、好きな人の姪っ子をいじめたり、好きな人をボッコボコに殴ったり蹴ったりする。とても可愛い。

話は戻って、東京で踏み絵した好きなカルチャーとはなにか。
私の進学先は東京ではなかったが、大学生になった途端、バンドを好きな友達がたくさんできたのでとても嬉しかったことをよく覚えている。
しかしながら大学生は欲深いので、バンドが少し売れると「俺はそんなの聞かねえ」と、俺の好きなバンドの方が特別で誰も知らなくてかっこいいんだぞ競い合っていた。
私が言うまでもなく的確な既存資料があるので参照してほしい。

”超”初級サブカル女子入門 - トゥギャッチ

私だってサブカルチャーに没頭していた頃は、メインカルチャーに迎合している人たちを見下していたわ。

「あゆの踏み絵」は領域侵犯以外にも意味があった。
特別になれないからと、みんなが好きじゃないものを好きになって、みんなが好きなものを見下すことで自我を保っていたのは13歳の頃だった。
その頃大森さんも13歳だから、シングル「SEASONS」収録11曲のうち9曲が「SEASONS」およびそのリミックスだったものを聴いたのではないだろうか。
今なら9曲のリミックスを聴き比べてみたいと思うが当時は「SEASONSしか入ってねえぞ、TO BEもなんか知ってるのと違うし」と思っていた。
メインカルチャーから距離を置くことで生まれる下層の連帯感を醸す為の踏み絵、「流行りの音楽ってなんか苦手で(笑)」、よくわかんねえなあと思いながら父親の持っていた洋楽を聴いていた。今思うとあゆよりよっぽど売れていたCDだ。

ここで、「大森さんが踏み絵にされる場面」のことを考えよう。
「沈黙」でモキチが唾を吐くことができなかった踏み絵は聖母だった。
「ドグマ・マグマ」のMVはキリスト教的なモチーフが多用される。その辺は詳しくないので語れることはないが、十字架を背負うのはゴルゴダの丘に向かうキリストだろうし、アーティスト写真はヴェールといいポーズといい、マリア様だろう。

メインカルチャーから距離を置く態度を示すものとしての踏み絵。
「えー、大森靖子?昔夏フェスで観たことあるよ、弾き語りはよかったけどさー、最近セルアウトっていうかー、」と笑笑でジンジャーハイボールを飲みながら話す男子大学生(軽音部)を想像してみたら、かなりの確率で実在していそうで笑ってしまった。男子大学生じゃなくて、OLでもなんでもいいけど。
好きも嫌いも人の自由だから、そういう人のことはどうでもいいので、私の目に触れないところで達者にやってくれ、という感じだ。

問題は、「自分の立場を守るために、心が死ぬ」ときの踏み絵だ。
「靖子ちゃんのこと大好きなのに、学校で言ったら『お前、メンヘラかよ』って言われた。好きなのに言えなくなった。」と言っている女子高生のことを想像してみる、男子高校生でもいいけど。大人はそのくらい自分でなんとかしろ。
いるのかな、そんな悲しい子はいないでほしい。
「沈黙」で印象深い場面の一つは、役人に連れて行かれる隠れキリシタン・モキチに神父・ロドリゴが「踏んでもいい」と伝える箇所だ。自分を助けるため、また自分以外の誰かを助けるため、絵を踏むことを神様が咎めるものか、と私は思う。神様のことはよく知らないけど。
「好きなのに好きだと言えなかった」と嘆く人がいたら、大森さんは笑ってくれるだろうか、と考える。
私は職場では3人くらいにしか大森さんの話をしていない。「休みの日なにしてるの?」と聞かれても「本とか読んでます」と答えている。「大森靖子ちゃんのライブに行ってます!」とは言わない。
それがたまに、大森さんに後ろめたい。

大森さんはどちらの踏み絵にもなり得ると思うが、そもそも「踏み絵」という状況そのものが、とても悲しい。
以前大森さんが「少女性の守護神」として「KERA」(ロリータファッション雑誌、で合ってる?)の表紙になった時、「わたしたちが大切にしてきたもの、それは好きなものを好きっていう勇気」と書かれていた。
大森さんが踏み絵にならず、「好きなものを好きっていう」ことが、簡単にできること、大森さんが作ってくれるのはそういう世界だ。

ところで、あゆを踏み絵したような私にも地元に1人だけ友達がいる。
好きなものはディズニーと三代目J Soul Brothers。今でも2、3年に1度会う。いつもお香の匂いがする軽のワンボックスで家まで迎えに来てくれて、行き先はファミレスかイオンかスタバ。スタバよりいい店?「うみの」とかじゃないの、知らんけど。
関係性はいたってシンプル、高校の同級生だ。
高校生の頃はプリクラを撮ったりカラオケに行ったりして遊んでいた。歌が上手で、よく倖田來未を歌っていた。
仲が良くなった理由は簡単、ただ単に同じクラスだったからだ。
今後私が彼女のように「JSBまじ好き〜」という人と友達になる可能性は殆どない。大バッハが好きな人と友達になる可能性の方がまだ高い。
選民意識のための踏み絵も保身のための踏み絵もなくて、ただ同じ教室で3年過ごしただけで私たちは仲良くなった。それが「地元の友達」だ。

「好きなカルチャーで踏み絵」しまくっていた。今もしているけど。都会にはなんでもあると思ったし、地元は浸かり過ぎると風邪をひくぬるま湯のようなところだったから「ここにいたら退屈と自意識に飲み込まれて死ぬ」と思って逃げだした。それは事実だ。
「地元よりちょっと都会の大学に行って音楽の話する友達とかできて『もしかして私だってちゃんとやっていけるのでは!?』っていう気分の時に行きたいとか行きたくないとかなくて行くものだから行った成人式で元同級生の男の子と目があった時に『うわっ』て言われたあの時の気持ち」とかを忘れないで生きている。そろそろ忘れてしまいたいとは思っている。

そんなに長いこと帰るわけではないから、地元の友達に会うのは短時間だ。だから「もっと話したい」とは思うけれど、踏み絵の上に成り立つ人間関係に慣れ切った私は「話すほどにわかりあえないのがわかる」と思ってしまうだろう。
「JI・MO・TOの顔かわいいトモダチ」自体が私にとって「痛いほどわかる」なのだ。

「地元のトモダチ」というフレーズ、それこそ「メインカルチャー」であり「選民意識のために踏み絵」しかねない存在だ。インスタントな不幸自慢、思春期の頃の友達は少なければ少ないほど良き。田舎で群れるなんて以ての外。
「地元」に対する呪いの気持ちはインターネットにひたすら放流してきた。けれどそんな私でも地元のあの子のことは大好きだ。地元への気持ちはいつだってアンビバレント、いいところだよ、帰らないけど。

だから、大森さんが「JI・MO・TOの顔かわいいトモダチ」という曲を作ってくれたことで、私はまた一つ救われたような気持ちになったのだ。

「地元のトモダチ」を好きっていう勇気、今度帰ったらあの子と遊びたい。

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17/03の記録

日記

「楽しかったことだけを書く」というコンセプトに基づく生活の記録。

3/1
ミネストローネを作る。割と得意な料理。

3/2
昨日のミネストローネに、オリーブオイルで作ったなんちゃってブールマニエと牛乳を入れてトマトクリームシチューにチェンジ。
結婚してから、継ぎ足しやリメイクが出来るようになったので楽しい。一人暮らしの頃は平気で毎日同じものを食べ続けていた。

3/3
神戸にotoriというポストパンクロックバンドを観に行く。ポストパンクロックがなんなのかはよくわからない。otoriはポップ暴力だ。

3/4
大きな書店で本をたんと買う。
平積みの表紙が気になったので手に取ったら、以前に雑誌で1話だけ読んで単行本が出たら買おうと思っていた「蟷螂の檻」だった。 購入し貪り読む。とても良き。

3/5
確定申告について調べる。
完全に出遅れているが、なんとか間に合うとは思う。

3/6
先週あたりに見た「きょうの料理」か何かで、春らしい料理を作っていた。
「献立で、家族に春が来たことを知らせてあげましょう。忙しくてつい見逃してしまいますからね。」とのコメントにいたく感動したので初めて豆ご飯を炊いた。
炊き込み御飯は割と苦手分野だが、ちゃんと30分うるかして、夫の両親に買っていただいたすごい炊飯器の炊き込み御飯モードで炊いたら恙無くできた。「うるかす」という言葉はお国言葉ではないが、可愛いので好んで遣っている。
「献立で家族に四季を知らせる」ことのなんと尊いことか!献立がこんなに偉大なものだとは気がつかなかった。気がつかないところが良いのだろう、だって、豆ご飯はただただ美味しいものだ。
しかし私には「さりげない」ということが出来ないので、「土井善晴さんがね!」と夫に一言一句この話をした。ブログに書いてあることは大体全部事前に夫に話したことだし、夫はたまに「それ以降はブログでやってくれ」という。

3/7
確定申告の準備を粛々と進める。
達成感があって良い。

3/8
楽しいことは特にない。
久しぶりに過食嘔吐

3/9
職場の後輩とランチ。
とても美味しいカレーを食べた。

3/10
退職する職場の先輩と食事。
袖振り合うも他生の縁という感じ。

3/11
トーキョーへ。
大好きな美容師さんに髪を切って頂く。
「髪を切る」のは衛生面に関する社会生活での義務である反面、趣味趣向の側面もある不思議な行為だとこの美容師さんに髪を切って頂くようになってから考えている。
要するに美容室に行くのが楽しい。
夜は幡ヶ谷でHOMMヨさんを。
自分の持ちうる全ての教養を出し切ってからようやく議論の舞台に立てるのだなと思うと日々お勉強である。杵柄だけで生きていくのは勿体無いことだ。
隙間の時間を狙って池袋PARCOのon BLUEショップへ。
地元にいた頃は「オタクがばれたら社会的に死ぬ」と思っていたので今もひっそり生きている感はあるが、東京だと何を買うのも平気だ。

3/12
泊めていただいた友人とレトロな喫茶店でリアルタイムの会話を。会って話すのは本当のことばかりだ。
サクライケンタさんの企画を見に鶯谷へ。詳しくは後日。

3/13
ダイソーで無責任な柄のペンケースを購入。
色鉛筆を入れる。

twitterに書きなぐったライブの感想が、おおよそ私には縁のないとても好きな漫画家さんの目に留まる。ひいいいい、という気分。
恥ずかしっ。

3/14
ポンコツ。生きているだけで御の字。

3/15
キチガイアを聴く。いろいろ書いている。

3/16
キチガイアを聴く。
ファミリーマート無印良品キーマカレーを買って食べる。味は普通。

3/17
帰宅中に何もかも嫌になったのでミスドに篭ってキチガイアを聴いて思ったほんの一部のことを書き殴る。
感情の過食嘔吐

3/18
花粉が飛んでいる。

3/19
夫の元同僚が自宅に遊びにくる。
何度かあったことのある優しげな人なので、あまり無理せず愛想良く過ごす。

3/20
朝からファミレスで朝ごはんを食べる。
気だるい。

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好きな漫画を貼るだけの日記

Amazonのリンクをたくさん貼るのは、前にtwitterでお勧めした漫画を買ってくれた人がいてとても嬉しかったからです。

ここ半年くらいに買った漫画からお気に入りを。

蟷螂の檻 1 (onBLUE comics)

蟷螂の檻 1 (onBLUE comics)

 

「育ちがよくて努力家で能力もあるのに家庭環境のせいでメンタルが弱々」が好きなのは何かの呪いかな。

 

コオリオニ(上) (BABYコミックス)

コオリオニ(上) (BABYコミックス)

 

面白すぎてブログ書いた。

 とにかく面白い漫画「コオリオニ」のこと - 白昼夢、或いは全部勘違い

 

 中年男性と女子高生の人格が入れ替わる、という設定なのだけど、中年男性(中身)が「可愛い」が消費されることの当事者になるシーが、もう本当にヤマシタトモコ様!という感じ。

 

きのう何食べた?(12) (モーニング KC)

きのう何食べた?(12) (モーニング KC)

 

 お料理漫画なのに普通の登場人物の普通の日常が違和感なく変わっていくのが本当にすごいけどとにかく美味しいし手際もお勉強になるのでマストバイ。

昔から好きな漫画。

 年末とか夏休みとかになると読み返したくなりませんか。キースシルバーが好きです。

 

ひばりの朝 1 (Feelコミックス)

ひばりの朝 1 (Feelコミックス)

 

 ヤマシタトモコさんはずっと大好きでサイン会にも行ったことあるのだけど、これが一番重たくて、帯に書いてあったとおり「怪作」。「HER」とか、「女」をテーマにした作品は他にもあるけれど、これは私から一番縁遠いタイプの女の子が主人公で、きっと私はこの漫画がなければひばりちゃんのような女の子のことを深く考えることもなかったと思うけど、知ってしまったからには無自覚でいられなくなった。

 

恋の話がしたい (マーブルコミックス)

恋の話がしたい (マーブルコミックス)

 

 ヤマシタ作品で一番好きな男の子は真川くん。

 

りぼんっ子なので。「バンドマンの生活を支えて25歳前後を棒に振るが、その後バンドマンはちゃっかり結婚」という話があります。あと、「劇団員を支えつつ、しかし結婚願望に揺れる」というのもあります。

 

同級生 (EDGE COMIX)

同級生 (EDGE COMIX)

 

 多分これが初めて買ったBLのような気がする。遅咲きだから。

 

赤白つるばみ 上 (愛蔵版コミックス)

赤白つるばみ 上 (愛蔵版コミックス)

 

 後追いなので、「楠本まき先生の新刊を買う」という行為を体験できると思っていなくて、買ったはいいものの目次だけで胸がいっぱいになって目次を30分見つめ続けた漫画。

 

致死量ドーリス (フィールコミックスGOLD)

致死量ドーリス (フィールコミックスGOLD)

 

 世界で一番好きな漫画。

 

「社会的地位が高い方が右」とか「体力的な意味で強い方が左」とかが好きなんだけど、多分権力とか体力とか暴力とかに拠るものではないっていうのを知って安心したいのかな…とか、それを求めるから男女ではないものを選ぶのかな…とか考えている。でも薄い本の文化には原作至上主義と固定観念が強すぎてすぐ解釈違いを起こすから馴染めなかったし、背表紙が黒字に白抜きゴシック!みたいなレーベルの漫画も苦手だし、何にも読めない。

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中田君は「お前が自力で働く努力と、誰かが人に養って貰おうとやっている努力は、やり方が違うだけでどっちも生きていくためのものなんだよ」と言った。

私の話

私が大学時代に知り合った中で最もイケてる人、それが中田君だ。

外見は「アラサーちゃん」に出てくるオラオラくんをイメージして欲しい。あの頃は本当にジレが流行っていたので中田君もよくジレを召していた。ちなみにオラオラくんは慶応大学卒の会社経営者で年収は1000万オーバーという設定で、私はオラオラくんがゆるふわちゃんを馬鹿にしているコマで日経新聞を読んでいる描写がとても好きだ。

中田君とは、私が大学4年生のとき就職支援室でバイトをしていた時に知り合った。就活生のエントリーシートを読んで思ったことを言うと小銭がもらえる仕事だ。「そのギャル文字はいくらなんでもやめなさい」とか。当時は「こんなことで金もらって良いのかな」と思っていたが、人と話すことは大切なので就活生はとにかく人と話してくれ。
地味な地方大学である我が母校にしては珍しく最大手広告代理店の輝かしい内定を持っていた彼は、チャラくさい見た目に反して気さくな良い奴だった。何度かお酒の席を共にした時も乾杯するときはウェイウェイやっていたが、コミュ障気味の私とは一対一になってじっくり話を聞いてくれた。

卒業してからは一度だけ会った。社会人1年目のとき、バイトのなごりで就活生と話す会に参加したときだ。
打ち上げの席で名刺の見せ合いっこをしたが、彼の名刺は誰よりスタイリッシュだった。
そこで初めて聞いたが、下世話な元同級生曰く、「中田君の名刺があれば、合コンで女の子が無限に持ち帰れる」らしい。

そのときの私の表情は「侮蔑」の一言だったと思う。
当時の私は、普通の大学に入って、普通の大学を卒業したのち、普通の会社で働くことでしか自分を肯定できなかった。(これは後に「仕事とかいう、景気のような外的要因で簡単に左右される物事に心の拠り所を持つのは得策ではない」と諭されて考えを改めることになる。)
だから、「自分の力で働こうとしないこと」に対する怒りを露わにした。本当にそんな人いるの?名刺(イコール年収)でしか人のこと見てないじゃん、と。
すると中田君は、「お前は働いてるだろ。俺はお前の能力を評価してるし、頑張ってると思う。
でも、お前にはわかんないかも知れないけど、合コンで俺とか会社の先輩とかと付き合って結婚しようって思っている人は、可愛く見せるとかそういう努力で自分の暮らしをランクアップさせようとしてる。
お前がやってる自分で働く努力と、その子達の努力は、やり方が違うだけでどっちも生きていくためのものなんだよ。」と言った。

自分がなんと答えたのかは覚えていないが、私はこの中田君の言葉がとにかく嬉しかった。

大学を出て就職した。やればやるほど「女なのによくやってるじゃん」という評価にぶつかることは少なくなかった。
「でもやっぱり愛嬌が足りない」とか「でも結婚して仕事辞めるんでしょう?」とか、そういう言葉を投げられたこともあった。
「女の子が大学なんか行ってどうするの?」と言われたことはあるか?2004年の出来事だぞ!
やってきたことを「でも可愛さが足りない」と言う一言で全部をなかったことにされるのは、強すぎる呪いだった。

中田君が私に伝えたかったこととは趣旨が違うが、私は「世間が評価する女の子としての可愛らしさ」と「私が働いていること」を、やり方が違うだけでどちらも努力だと言って貰えたことがとても嬉しかった。
そして私の侮蔑は「可愛いだけで乗り切ろうなんて甘いんだよ」という、間違った方向への恨みによるものだったんだなと気付いた。
私が憎むべきは私を馬鹿にした人たちだし、「可愛い」へ近づくのは努力でしかない。
詳しくは「ブスの本懐」などを読めば良いと思う。

もう中田君に会うことはないと思うが、元気でいてくれることを願っている。

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17/2/24 青色時代TOURでDAOKOちゃんと大森靖子ちゃん観てきたよ

大森靖子ちゃん

大森靖子「ドグマ・マグマ」Music Video/YOUTUBE Ver. - YouTube

要約
・DAOKOちゃんとてもよかった
・フェスで見ても何もわからない
・簡単に誰かを神様にしない
・大森さん好き

DAOKOちゃんのツアー「青色時代」に大森靖子ちゃんが出るので行ってきた。
大阪、心斎橋、BIG CAT。
大阪で上から数えた方が広い会場は殆ど満員だった。

DAOKOちゃんのこと。
びっくりした、ぶったまげた、あんなもの初めて観た。
とてもよかった。生で観ることが出来て本当によかった。

DAOKOちゃんを観るのは2回目だったが、失礼ながらそんなに楽しみにしていた訳ではない。
DAOKOちゃんを知ったのはごく普通にm-flo
のアレだ。「ニコ動に動画を投稿しているラッパー」という説明を読んで、「m-floって若い新人にめっちゃアンテナ張ってるんだな」と思った。それだけ。
それ以来なんとなく名前は知っている程度で、昨年のCDJでは「なんか名前知ってるし」という理由で観た。それが1回目。
残念ながらそこまで印象には残っていない。ダンサーを2人くらい連れたステージは思っていたよりスマートで、「へえ、これがdaoko(多分まだ小文字だった)か、」とテキトーな感想を持った。

それが一転、今回はとんでもなく素晴らしいステージに酷く惹きつけられた。
「生で観ないと何もわからない」とは常々思っていたが、わたしは一度生で観たにも関わらず、DAOKOちゃんの良さが初回は感じ取れなかった。
ステージ上の作り込まれた世界観はフェスでは表現できないであろうものが多くあり、2マンなりワンマンなり、本人主催のライブで観ないとわからないことは沢山あるのだと改めて気づいた。
フェスでの良き出会いも勿論あるだろうが、折角なら持てるものを全て見せてくれるステージに多く立ち会いたい。
コーネリアスくらいになるとフェスであのくらいやってるけどさ)

初心者なのでまず当たり前にあのスクリーンと映像に驚いた。
演奏が始まるまでスクリーンがあることにも気づいていなかったので、いったい何が起きているのかさっぱりわからず最初はとても混乱した。
何も知らないまま観に行くと新鮮な驚きを味わうことが出来て楽しい。初心者の特権だ。

投影されている映像を眺めて、明朝体のよく似合う歌詞だな、と思った。
初めて聴く曲ばかりなので単純に歌詞がわかると見やすいというのもあったけれど、「曲+歌詞+映像」の世界観が全て統一されていて、視覚と聴覚の両方からDAOKOちゃんが流し込まれる感覚がとても気持ちよかった。
漫画のコマが流れてくるものが特に可愛かった。

世界に入り込むことが出来ると受け取れるものも増えるのか、初回観た時には気づかなかったが、DAOKOちゃんの声質は新しいというか聴いたことのないもので、尚且つ心地よいものだと気づいた。
あと、tofubeatsって超すげえなと普通のことを思った。

椎名林檎の話をする。

大森靖子ちゃんがDAOKOちゃんに会うため」(多分)に、2人で椎名林檎の話をするラジオに出演した。聞いてはいない。
その件で、DAOKOちゃんは椎名林檎が好きだと公言してやまないということを知った。
開演前には延々と椎名林檎が流れていた。
それこそ大森靖子ちゃんの「魔法が使えないなら死にたい」がリリースされた頃までは「女性シンガーは椎名林檎に否定的でも肯定的でも無関心でも言及すら出来ない」風潮あったように思う。
(それに対する意思表示があのジャケットだ。確かに、「ポスト椎名林檎」というレコメンドの横にあのジャケットがあったら、書いた側のことを私はダサいと思うだろう。)
DAOKOちゃんが、ただ椎名林檎が好きだから椎名林檎が好きだと公言していることが、なんだか、いいなぁ、と思った。
世代が違うから、離れているからといえばそれまでかもしれないが、好きなものを好きだと言えるのはいいことだ。

DAOKOちゃんは「歌舞伎町の女王」をリミックスしてラップを挟んだ曲も披露してくれた。
私は大森靖子ちゃんと同世代だが、椎名林檎は中学生の頃、私の神様だった。
勝訴ストリップ」が発売されたのが中学生1年生の頃。それ以来毎日毎日椎名林檎を聴き、歌詞をノートに書き写し、時にはレタリングしていた。多くないがそれなりの割合でエンカウントするタイプの田舎の中学生だ。

私にとっては椎名林檎の曲は、原点の誤字ではなく、原典のようなもので、カバーやましてやリミックスするという発想にすら、私には至らないものだ。
「世代が離れていると好きだって言えるしカバーもリミックスも出来るのか」と思ったあと、気づいたことがある。
ニコニコ動画が発足したのが2000年代後半、私は大学生で、DAOKOちゃんは小学生だ。「動画サイトに一般の人が動画を投稿する」ことが簡単に実現され始めたが、その中で「マッシュアップ」というものを知った。
(面白いものはtwitterで拡散、ではなくmixi日記に埋め込まれていた。当時は最先端だったが今となってはアナログ臭のする口コミだ。)
そこで、椎名林檎の「浴室」とgroup_inouの「STATUS」をマッシュアップした動画を観た。めちゃくちゃにカッコよかったことを覚えている。少し探したけれど残念ながら見つからなかった。
「原典」をカバーすることもリミックスすることも想像もつかない、と思っていたが、あの動画のことを私は「ニコ動だし、ありでしょ」と認識いていたんだな、と初めて気づいた。
メティアのあり方が表現するものや受け入れることのできるものごとの幅を広げてくれるのは面白いしありがたいな、と思った。
そしてもしそれによりDAOKOちゃんが、「原典を弄るなんてありえない」という私が感じていた風潮に触れることなく今のDAOKOちゃんになってくれたのだとしたら、どこに感謝したらいいのかわからないがありがたいことだと思った。

ルールを目的にしない創造的な日本へ――シンガーソングライター 大森靖子 - 週刊アスキー

そして私は大森靖子ちゃん贔屓なので、これは大森靖子ちゃんが次の世代のために戦ってくれたことも一因になっていると信じてやまない

時間を戻して、大森靖子ちゃんのこと。
大阪での弾き語りのライブは随分久しぶりだった。
BIG CATはおそらく3回目で、弾き語りは初めてのはずだ。2014年 ピントカ、2016年 新⚫️z、だと思う。
大きな会場で大森さんを観ることができるようになって久しいが、弾き語りをこんなに大きな会場で観るのは、2015年の名古屋クアトロ以来だ。BIG CATは、私が大森さんの弾き語りを観た中では今のところ、一番大きな会場となった。
運良く、それなりに狭い会場で大森さんを観る機会には恵まれたほうだと思う。
梅田ハードレイン、松屋町地下一階、あの頃から、私は会場全体が身じろぎしない空気が大好きだった。
そして会場が大きくなるにつれその静けさは物理的な範囲を広げ、なのに規模の拡大に反して静けさの密度を益々高めているように思う。
アンダーグラウンドというよりはカタコンベ、密やかに行われる集会のような緊迫感は、私にとっては心地よいものだ。
会場には知人もいれば友人もいれば配偶者もいたが、私は私だけの場所でただ1人でぼんやり立って開演までをやり過ごし、ただ私と大森さんしかいない世界を、そしてその人と大森さんしかいない世界の人が隣に立っていて、大森さんの演奏を聴いた。

PINK
TOKYO BLACK HOLE
over the party
絶対彼女
エンドレスダンス
I&YOU&I&YOU&I
オリオン座
SHINPIN
呪いは水色
キラキラ

大森さんはハイペースなのでもう結構な数のアルバムが出ているが、割と満遍なく。

ものすごく当たり前のことだが、私は大森さんの音楽が好きだなあ、と思った。
心の中の世界観を具現化してくれる人が好きだ。
頭の中に流し込まれるような表現が好きだ。
芸術と対峙している時には、憎くて可哀想で可愛い私の自我はそんなに要らない。
大森さんが歌っていて、私がたまたま同じ頃に生きていて声の届く範囲の場所にいることが、もうそれだけでとんでもない奇跡なのだと改めて思った。

大森さんは、未だかつてないほど重みを持って「昨日のこともう覚えていないふり」と歌っていた。
そんな日にも関わらず、大森さんは「私はやっぱり大森さんの音楽が好きだなあ」と、ただひたすら思わせてくれるような演奏をしてくれた。
自分が一番傷ついているだろうに私やあなたのことを心配してくれる優しい人だ。
大森さんが少しでも心穏やかに過ごしてほしいと、私は大森さんのファンだけど、ファンなりに願っている。

アンコールでは大森さんの新しいアルバム(3/15発売!)「kitixxxgaia」から、DAOKOちゃんをゲストに迎えた「地球最後のふたり」を披露してくれた。
その前のMCでは、大森さんがひたすら「DAOKOちゃんとヤりたかった(いろんな意味で)」という話をし、かつて大森さんのファンがDAOKOちゃんに「この人ヤリ目ですよ!」とエアリプしていたのを思い出した。(一体どういうことだ)
あまりMCでは話さない、歌っている時の声と違うからがっかりされるかも、と話すDAOKOちゃんに、「そんなことないよ!すごくいい声だよ!歌っている時の声と話す時の声が聞こえ同じくらい優れている人って中々いないよ!」と言っていた。
DAOKOちゃんが話す声は確かに可愛いし、大森さんは単なるヤリ目ではなくDAOKOちゃんの良いところを多角的に見つめているんだなと、当たり前かもしれない失礼なことを考えた。大森さんが見せてくれないから仕方がない。

「地球最後のふたり」は、私がその日感じたDAOKOちゃんの良いところを、もっと私にとってわかりやすい形で見せてくれる素敵な曲だった。
大森さんはツインテールだった。きゃわいい。

DAOKOちゃんがアンコールで歌っていた「BANG!」という曲がとてもキュートだったのでずっと聴いている。

DAOKO 『BANG!』 Music Video[HD] - YouTube

またDAOKOちゃんも観に行きたいと思う。

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